ロッシーニ、パリで最後の住居
Rue de la Chaussée d'Antin 2番地、2階のバルコニーにの碑石には...
「ジョアッキーノ・ロッシーニ、作曲家。1792年2月29日ペザロで生まれ1868年11月13日にパッシーで亡くなる。この家に1857年以後住む。」と書かれています。この記事ではロッシーニがオペラの作曲を引退した1829年から彼が亡くなる1868年までの紹介します。
1829年、「ウィリアム・テル」を発表して以後、ロッシーニはオペラ音楽の作曲をしていません。その時彼は37歳、人生の半ばでほぼ引退をして自由に生きていました!誰でも知っている運動会での定番曲ですね。
その後フランス政府へ年金受給を依頼し、障害年金が貰えるようになった1836年に生まれ故郷のイタリア、ボローニャに帰ります。
3年後の1839年には彼が以前在学していたボローニャ音楽学校で校長となっています。しかしその年に父を失い1845年には妻イザベルも病気で亡くなっています。
1846年に新しい妻オランプとフィレンツェへ移りましたがその時からパリが恋しくなってきます。
パリはロッシーニを歓迎し1855年4月26日にパリに戻り、1857年にこの場所に移ります。パリでは高級レストランやサロンの経営なども始めました。
そのほかにもパリ市から郊外のパッシー地区に土地を与えられそこでは故郷のボローニャ風の別荘を建てていましたがあまり行かなかったようです。
もう63歳を迎えるロッシーニはあまり外出せずに自宅で人を招き、毎週土曜日に行われるパーティはパリ中で話題だったそうです。
その後は歌曲の作曲や演奏などを行いました。
1859年「ティタンの歌」を作曲をし1861年にコンサバトリーで演奏
1862年「かりうどの歌」をオペラ合唱団のために作曲
1864年「葬儀の韻律」をマイアベーアの葬儀のために作曲
1867年「ナポレオン3世、並びにその勇ましい人民への賛歌」を世界博覧会のために作曲
この年からはロッシーニの復活公演が各地の劇場で開演されました。
テアトル・イタリアでは「セヴィリア」「オテロ」「チェネレンドーラ」など
ブッフ・パリジャンではオッフェンバック改変版での「シニョーレ・ブルスキーノ」
オペラ座では「セミラーデ」が開園されましたがあまり成功しなかったとか...
1868年、ロッシーニ最後の1年では4年に1度の彼の誕生日!2月29日にはパリ中に花が飾られたそうです。
その年の秋11月13日にパッシーの別荘で死去...
ロッシーニは死後パリにフランス人、イタリア人引退歌手のための老人ホーム「Maison Rossini」を、イタリアのペザロに音楽学校を建てました。そのほかにも劇と宗教音楽に年3000フランの賞を設立。
「フランスがかくも好意的に私をもてなしてくれたことによる感謝と、私の生涯を捧げた芸術が完成されるのを見守るあかしとして。」と妻に遺言として残していたそうです。